市本百合枝の生涯

市本百合枝(1927-2014)は、昭和2年5月3日山口県豊浦群豊北町神田(現・下関市豊北町)で5人兄弟の末娘として生まれ、美術学校を目指すも反対され、1948年山口県立深川高等女子学校卒、小学校教師となる。1952年市本隆幸氏と結婚、3人の子供をもうける。安食慎太郎とも交流がある。1984年京都府伊根町泊シーサイドハイツに居を構え、多くの風景、静物画を残している。その当時は高速網も不十分で、今現在の2、3倍もの時間のかかる所だった。しかし自然の海、山々に囲まれ温泉もあり、心も癒され、沢山の仲間や家族と過ごした思い出の場所となった。

1994年11月、大阪環状線桃谷ギャリーフランソワで初個展を開催する。案内はがきの菜の花はその時の自信作だ。2000年5月、大阪府池田のギャルリVEGAで大藤通子と二人展を開催。シャングリラ1、2はその時のものだ。ドイツ、オーストリア、トルコそしてハワイも訪れ、風景・人物画を意欲的に描いている。

2002年9月、龐先生、桂先生のご尽力で、広州美術学院に水墨画高級研修生として1年間留学する。75歳は今までの中で日本人最高齢と思われる。

2016年(平成28年)明石市立文化博物館にて10月6日〜10月11日の6日間開催され、観覧者数600数十名、沢山の人たちに観て頂いた。高さ3メートル近い李唐臨笔(模写)は故宮博物館に飾られている唐の時代のものの模写で、数ヶ月以上をかけた留学時の卒業作品である。

広州から帰国後、日中友好の架け橋となり、九州大学書道部と広州美術学院と交流開催の運びとなる。パソコンもメールもできない80歳の一女性が、若い大学生との連絡方法は電話と手紙だった。牛歩のごとくの歩みでありながら、コツコツと友人の輪を広げ、素晴らしい営みが完成される。

そして高齢になっても衰えず、歩み続けた行動力が、絵の中に表現されている。動的な迫力のある、60年余りの画業を振り返る。いくつになっても不可能はない。高齢者の人々への励まし、勇気を与えたのではないだろうか。

 

老いの残り福

「老いの残り福」( 市本百合枝 著)より

限りある人生の 残りの時間の 今日もまた
年を重ねてめぐり合う 人のご縁の 有難く
あの方この方支えられ 思いがけない ハプニング
留学という名の 道の旅 夢見る二人に 明日ありや
あしたの事は 解らぬが 今日があるから まず一歩
まだまだ若いと 空元気 老風吹くまま 足まかせ
後は野となれ 山となれ 老いも又楽しからずや 残り福

思いがけない留学の ひょっこり浮き出たご縁の芽
そっと両手で掬い上げ そのまま胸に抱きしめて
大空向かって 飛び立てば
老いの悩みも 淋しさも 大気が風で 吹き散らし
大海原を一っ飛び 遠い大陸 近くなり
何時の間にやら ほんのりと 幸せ色の 虹がさす
学びの庭は 悠久の 歴史の重み ずっしりと
懐広い中国の 大河の流れに 身をまかせ
学びの道に勤しめば これこそ 老いの残り福
老いもまた楽しからずや 残り福

留学の夢ふくらんで 今日も幸せ又いっぱい
晴れなのに ふとしたことで曇りだす 心のもろさ おろかさに
老いてまだ 悩みの種の残りしか 時折顔出す煩悩に
しばし迷えることあれど 悩みも生きてる証だと
ああそうなんだと 気がついて 心の引き出し 入れ替える
発想変えれば 景色も変わり 心も体も軽くなり
どちらを向いても有難い 若い頃には 見ないものも
この頃少し 見えてきた 虚も実も 老いたおかげか見えてきて
人の真が 身にしみる 感謝感謝の明け暮れに
生かせてもらった幸せを 老いを嘆かず 喜ぼう
老いもまた楽しからず 残り福

自然に四季があるように 人にも織りなす 四季があり
自然の恵みに包まれて 冬季に入った 老人に
学びのご褒美 頂いて 感謝の念が 身にしみる
生まれて此の方 沢山の 友人知人に 恵まれて
出会いと別れを 繰り返し
受けたご恩は 限りなく 幸せ者の 自分だが
ご恩に報いる こともなく うかうか過ごした八十余年
心の中で 深々と 頭を下げて ありがとう
自問自答の人生も そろそろ終わりに近づいて
身の丈知らぬ 凡人の 自分であること 誰よりも
自分が一番 知っている 欠点だらけの 自分だが
このまま自然に 身をまかせ 自分に一番 正直に
ありのまま 自分のままで 終着点まで ゆっくりと
前を向いて 歩きましょう 老いも又 尚有難や 残り福

朝日新聞2009年9月10日に掲載された市本夫妻の写真

朝日新聞2009年9月10日より掲載